ブログ: 「イリオモテヤマネコの日」が 町の条例として制定されるまで その1

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4月15日は「イリオモテヤマネコの日」です。

国の天然記念物であり個体数わずか100頭のイリオモテヤマネコは、9万年前に大陸から離れた西表島だけに生きています。西表島は東京都の半分しかない野生のネコにとって世界最小の生息地です。そこにずっとヤマネコが生き続けていられるのは、西表島が大小40以上の河川をもつ大自然豊かな島であり、そこに生息している昆虫、魚類、爬虫類、両生類、鳥類、哺乳類など80種もの生きものをヤマネコが捕食しているからなのです。この自然環境のバランスが崩れてしまうと、イリオモテヤマネコが生きていけなくなるのはもちろん、他の生き物も生き続けることはできません。ぎりぎりのバランスの中でヤマネコは今日も生き、子を産み育てています。

西表島のこの豊かな大自然を守り続けるには、島の人たちが中心となって生態系の頂点にたつヤマネコの現状や保護について考えていくことが重要です。島民の皆さんは、日常生活の中でヤマネコと共に暮らしていることを特別意識することは少ないでしょう。そこで、「イリオモテヤマネコの日」という町の記念日があれば、その日にはヤマネコを主役にして、自分たちとの共存を考えてもらえるのではないかと考えました。 

2015年。この年はイリオモテヤマネコという野生のネコがいるということが日本国中、いえ、世界に衝撃をもって知られてからちょうど50年目でした。この50年という節目はヤマネコの存在意義と存続の危機を伝える絶好のチャンスです。ヤマネコの学術的発見にかかわった父・幸夫はすでに亡くなっていましたから、私はイリオモテヤマネコについて書かれた父の本「イリオモテヤマネコ 原始の西表島で発見された”生きた化石動物”の謎」(自由国民社 昭和47年9月発行)を改めて読み返し、西表島へ父が行くきっかけになった「ヤマネコがいるらしい」という言葉を聞いたときの父の様子を想像しました。もともと、亡びゆくもの、消えゆかんとしているもの、忘れられているもの、陽にあたらないものに強い愛情を持っていた父は、「野性の旅」という当時父がカメラと文で連載していた秘境を訪ねるシリーズの次作を八重山諸島の石垣島にすると決めていました。当時はいまだ日本に戻れず、多くの日本人から忘れられていた島です。そこにタイミングよく、沖縄県那覇市にある琉球新報社の新社屋が完成し、そのホールのこけら落としにと、3月に文化講演会の講師として招待されたのです。父は久しぶりに訪れる石垣島への旅に思いを馳せながら、1965年2月に那覇空港におりました。

<那覇の空港に降り立ってみると、2月だというのに太陽は、かっとまぶしく照りつけてきていた。さすが南の国だなあ、と、私は思った。空港には、私がかつてサン新聞社の取材部長だった当時に、私の下でデスク(副部長)をやっていた徳田安周君が迎えてに来てくれていた。徳田君の後に、私にははじめてだが、色の白い愛嬌のある青年がにこにこと笑いながら立っていた。親泊一郎君といって、前社長の御曹子だということで、今は琉球新報社の事業部長をやっていた。(略)私のかかりは親泊君がしてくれることになっていて、なにやかやと面倒をみてくれた。その親泊君が、ある時突然、こんなことを私に言った。

「西表島にはヤマネコがいるそうですよ」

正直に言って、その話を聞かされた時私は、またか、と苦笑をした。ヤマイヌが出たとか、ヤマネコがいる、といった話はこれまで何十ぺんと聞かされていたし、そしてまた、私自身そのうわさを頼りに何度か調査に出かけたこともあったが、一度もほんものであったためしがなかったからである。(中略)しかし、私は念のために西表島にわたる前にこのことをだれかに確かめてみたいと考えていた。> <そこでまだお会いしたことはなかったが、ハブについていろいろ教えをこうて文通をしていた琉球大学の動物学の高良鉄夫教授を訪ねてみた。私は、沖縄、特に八重山地方に住むいろいろな動物について高良教授から教えをいただいたあとで、話のついでに、「琉球新報の記者から、西表島にはヤマネコがいるという話を聞きましたが、つまりなんでしょうねえ。飼い猫の野性化したものでしょうな」という質問をしてみた。すると高良博士はちょっと首をひねって、「まだ、毛皮も骨格も、私の手もとに集まっていないので、はっきりしたことはいえないんですが、必ずしも野性化した飼い猫だときめつけるわけにはいかないようですよ。というのはね、ヤマネコを取ったという人の話をいろいろ聞き合わせてみると、毛の色が大体一致しているんでねえ」と、学者らしい慎重さで答えた。そして、私に、あなたがこれから西表島にわたるのなら、できるだけデータを集めてみてくれませんか、と言った。私はデータはもとより、なんとか、標本を集めてみましょうと約束してわかれたのであった。>(戸川幸夫書 イリオモテヤマネコより) 

戸川久美 JTEF理事長