ブログ:イリオモテヤマネコの日」が 町の条例として制定されるまで その2

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私はまず、当時、父にヤマネコの噂を伝えてくれた琉球新報の記者だった親泊さんに一度お会いしたいと2014年の秋(発見50年の前年)に手紙をしたためました。私も35、6年ほど前に父とともに沖縄本島でお会いしたことはありましたが、その後連絡が途絶えていました。すぐにご連絡をいただき、私は那覇に伺ったのですが、80代になられていた親泊会長はご自分で車を運転され、父との思い出をいろいろ話してくださいました。それから琉球新報社に向かい担当部署の方たちに私を紹介後、ヤマネコ発見50年事業を立ち上げようと、アイディアを次々と提案してくださいました。  まず、琉球新報の朝刊に絶版となっていた父の小説「イリオモテヤマネコ」」を連載し、最終ページに私が現状を書き足し、再版すること(「イリオモテヤマネコ―生きた化石動物の謎」 (新報新書) 新書)。さらに、石垣島へ行くJTA機内で「西表島ではヤマネコの交通事故に注意喚起を」とアナウンス、JTA機内誌のコラムにイリオモテヤマネコの現状を半年間連載、西表島、那覇市、東京でイベント開催(うちなー噺家しぃさー=藤木勇人さんの小咄披露を含む)、JTA機内と那覇空港、石垣空港でのJTEFチャリティーグッズの販売、そして機内ではJTEFで作ったヤマネコ応援歌「イリオモテヤマネコってんだー」を流し、JTA機入口にヤマネコの絵を描写するなどの企画が、発見の4月までに次々と確定していきました。

私たちは数年前からヤマネコ保護に欠かせない島の開発計画を把握するため、西表島など離島から成る竹富町に足しげく通っていましたが、この発見50年目の「ヤマネコ発見50年記念事業」の立ち上げに町長も喜んで賛成していただき、4月に実行委員会発足記者会見を開きました。

そして、6月2日に開かれた第1回実行委員会にて「イリオモテヤマネコの日の制定」に向けて取り組むことを目的の一つに掲げる実行委員会の設置要綱案を配布してもらいました。この実行委員会の各議員は初めてお会いする方もいらっしゃいましたが、JTEFが西表島で活動を開始した2009年からこの2015年までにできるだけ島の方たちと親交を深め信頼関係も築いてきていたので、町の条例として制定する意義についても委員の方たちはしっかり聞いてくださいました。さらに、委員だけでなく、「イリオモテヤマネコの日」を条例で定めるためには議員さんに賛成してもらわなければなりません。長年、お付き合いをさせていただいていた議会事務局長に相談したところ、町民からの陳情か、議員提案で議会にかけるのが良いとのこと。実現に向けて両方準備しようと、特にお付き合いの長い実行委員と町議ににそれぞれお願いしました。

ヤマネコの保護にかかわる「イリオモテヤマネコの日」の制定に反対意見が出るはずもありません。皆さん、快く分かったと言ってくださりほっとしました。結局は、議員提案を出すということに決まりましたが、竹富町議会は6月、9月、12月、3月の年4回開かれます。私は次の6月の議会で確定すると思っていたのですが、そう簡単ではありませんでした。大筋は皆さん賛成なのですが、「イリオモテヤマネコの日」を何月何日にするのかが問題となりました。

私たちが提案したのは、「一族一種と全国紙で大きく新聞報道された4月15日」でした。ところが、当時の副町長がこの案に反対。以前の会議では、「ゴーヤの日が5月8日みたいに、語呂合わせでヤマネコの日は決められないからね。」と言っていたのに、なんと、確か語呂合わせで10月(モテ)8日(マネコ)を推薦されたのです。

JTEFはイリオモテヤマネコの保護は、地元の人たちが自分のことと認識し、行動しない限り成功しないと当時から考えていました。そこで、西表島に在住の人が運営する支部を立ち上げる準備をしていました。事務所を探し、そこに常駐する事務局長も、ヤマネコの交通事故防止夜間パトロールを何度かやってくれていた30代前半(当時)の高山さんが喜んで引き受けてくれていました。私たちは翌年の4月15日が第1回イリオモテヤマネコの日に決まると信じ、この支部設立の発表もかねたイベントを着々と準備していたのです。しかし、町の6月議会にはその日を定める条例の提案はありませんでした。

そうなると、次の議会は9月。もし、この時に決まらないと、翌春の4月15日に予定していた計画は実行できなくなります。9月の次の12月の議会では次年度予算など決めなければならない議題が満載ですから。 私はよく知っている議員さんにも、町長にもお願いの電話をしました。何が何でも、この9月に実現してほしかったのです。

戸川久美 JTEF理事長