ブログ:日本の象牙加工-その歴史的価値は?
https://www.jtef.jp/wp/wp-content/uploads/2025/11/Togawa-bw-1000x1024.jpg 1000 1024 Japan Tiger Elephant Organization Japan Tiger Elephant Organization https://www.jtef.jp/wp/wp-content/uploads/2025/11/Togawa-bw-1000x1024.jpg現存する最古の象牙製遺物は正倉院に
2025年10~11月開催の「正倉院展」(奈良国立博物館)では、「牙笏」(げしゃく)が展示された。笏は朝廷で正服を着たときの細長い板状の持ち物。聖徳太子や源頼朝の肖像画で持たれているものと言えばイメージしやすいだろう。東大寺正倉院には象牙製の牙笏が納められており、その一つが今回公開された。

正倉院には、これ以外にも、現存する最古の象牙製品として物差し(尺)、針筒、くし、碁石、刀の鞘(さや)、(琵琶(びわ)を奏でるための)撥(ばち)などが所蔵されている。これらは、当時の中国を支配した唐で製作されたものが、奈良時代最盛期である天平時代(729~749年)までに日本に持ち込まれたとみられる。
未加工の象牙と思われていたものは、実はクジラの骨
日本の象牙業界は、正倉院には象牙の「原材料」も収蔵されていて、日本の象牙加工が当時から行われていたのではないかと述べてきた。日本の象牙加工の歴史が長いことを強調したかったのであろう。
確かに、正倉院には、基部から先端の直線長約141cm、基部付近の断面の長径×短径78.3mm×73.6mmで、緩やかにカーブを描く先細り円柱型の御物が所蔵されている。最も古い目録上、「象牙」と記されてきたものである。

ところが、2025年に正倉院事務所が発表した動物由来素材(牙甲角)調査の結果によると、この「象牙」は、大型クジラ類の肋骨だったことが判明した。
日本における象牙加工の始まり
日本で象牙の加工が始まったと確実に言えるのは、16世紀前期の戦国時代とみられている。日本特有の象牙の加工・使用例とされるのが、安土桃山時代(1573~1600年)に一般化した象牙製の茶入れの蓋、すなわち牙蓋(げぶた)である。象牙には神経が通っており、小さな穴が貫通している。牙蓋を製作する際には、あえてこの神経の痕を含む部位を使うことが多い。

元禄時代(1688~1704年)を迎える前後より、印籠(いんろう))、くし、根付(ねつけ)などが好事家の間で歓迎されるようになった。くしの他、笄(こうがい)、簪(かんざし)といった女性用髪飾りにも象牙が見られるようになる。
根付は、江戸時代、男性の装身具であった印籠(武士階級)や煙草入れ(町人階級)などの提物(さげもの)を持ち歩くとき、それについている紐(ひも)を帯などに挟んで腰に下げるための留め具である。根付の素材は、ツゲ、ヒノキ、黒檀(こくたん)などの木が最も多く、次いで象牙や鹿角(かづの)などの牙角(げかく)類が用いられていた。

和楽器の付属品にも象牙製のものが登場する。よく知られたものは、三味線の弦をはじくばちである。確かな普及時期は、江戸時代半ばの18世紀中盤で、浄瑠璃(三味線で拍子をとりながら、物語を語って聞かせる語り物音楽)の世界で一定の地位を築いた。

始まりの頃の日本の象牙加工の特色
江戸時代の日本は、鎖国政策によって貿易相手がオランダと中国に限定され、それらとの貿易も厳しく統制されていた。象牙が基本的にはご禁制の品であったこと、当時の象牙の用途が日本在来の実用品の素材であったことからすると、江戸時代の象牙加工は、特権層・富裕層が求める実用品素材の高級化に対する需要に支えられていたといってよい。一方、江戸時代においては、象牙がヨーロッパ、インド、中国等にみられたごとく美術品の彫刻素材とされたことはなかった。
開国がもたらした象牙加工の一大変化
開国によって西洋文化が日本に押し寄せ、葉巻煙草、洋服着用が普及すると、江戸時代に繁栄をほこった根付等は実用から遠ざかり、その国内需要は極度に減少していった。
ところが、この風俗の変化に先駆けて、これまでとはまったく異なる需要者、用途、趣向を根付に与えるビジネスが早くも登場する。
米国のペリー来航以降、日本は急速に他の欧米諸国と関係をもつようになる。ことに1859年の横浜での貿易開始は、大きな画期となった。そのような中、根付に着目した欧米人が、多くの名品を持ち帰り、やがて欧米人向けに大量の根付が製造され、盛んに輸出されるようになる。
近代における象牙産業と象牙市場の成立
事実、明治政府から、海外に売れる産品を生み出すよう促されるまでもなく、時勢に敏感な実業家たちは江戸以来の木彫作家たちを象牙彫りに勧誘し、貿易商社らは大口注文を出して大量の商品を買付けた。
やがて根付を上回る勢いで欧米に輸出されるようになっていったのが、置物彫刻を中心としたいわゆる「牙彫(げちょう)」作品である。根付のような装着という用途に伴う製作上の制約がないため、どんどん大型の作品が作られるようになった。

こうして、内国博覧会の第1回(1877年)および第2回(1881年)の前後が、愛玩目的の工芸品である根付、その彫刻的工作の技術を素地とする「牙彫」(げちょう)の全盛期となり、象牙作品はますます輸出の花形となった。

手前に不忍池と弁天堂、向かいに東照宮が見える。
左端が会場で、現在国立博物館がある場所を中心に会場が整備されていたことがわかる。
このように、江戸時代に町人まで普及した根付に端を発するとはいえ、明治初期の根付・牙彫の市場は、需要先が欧米人に完全に切り替わり、用途もまったく変わり、生産と取引の様式もかつてのやり方から一新された。いわば江戸期の象牙根付とその市場を換骨堕胎したものである。現在に続く日本の象牙産業は、江戸期の象牙加工の営みとの連続性をほとんど欠いた、日本近代化の黎明期に登場したベンチャー・ビジネスだったといえよう。


左図は、1864年創業の象牙商 辰巳屋加藤豊七(東京日本橋区馬喰町)が、1907年に発行した英・仏文カタログの奥付。カタログ冒頭の店主あいさつで、「私たちは創業以来改善を重ねて参りましたが、それは彫りについてだけではなく、装飾美術にご関心をお持ちのお客様にご満足いただく意匠とすることで、時代が求めていることに応えて参ります」と述べられている。写真右は、同カタログに掲載されていた写真立てフレームとキャンドル立て。
美術としての象牙彫刻の急速な勃興と消滅
多くの芸術史家たちの評価によれば、世界的に見た場合、象牙の芸術的な生命というものは、ほぼ18世紀末に終わっているとされるのが一般的である。ヨーロッパ、インド、中国の状況はそのことを物語っている。
一方、日本において象牙美術が存在したとすれば、それは象牙美術の寿命が世界的に尽きてから1世紀の後、牙彫が登場した19世紀後期になってからのことで、しかもわずか30~40年の間に、勃興、極盛、衰微の三段階を経験した。
江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につないだ彫刻家高村光雲(詩人高村光太郎の父)は、1875~1881年頃の牙彫の興隆について、次のように振り返っている。
わずか三年位の間に、流行というものは恐ろしいもので(もっとも、これは外国貿易品で、欧米人の嗜好が基ではあるが)彫刻の世界は象牙で真っ白になってしまいました。
象牙彫刻は、もともと明治維新という社会の変動期に、海外輸出という特別な刺激の下に振興され、その後の発達も輸出商品としての名声を損なわないようにすることによって発展したものである。ところが、その美術作品としての質を高めるために、作者が歴史にゆかりのあるものに題材を求めるようになり、また表現を重んじて、(今日「超絶技巧」などともてはやされるような)紛雑な細技を弄することを控えるようになると、欧米人にとっては、かえって理解しがたい、楽しめない作品になっていった。のみならず、優秀な作家は、その作家的自覚から海外へ売らんがための製作から遠ざかり、凡庸な作家、職人のみが輸出向きのものを作ったため、その陳腐な技法は欧米人からもあきられるようになっていった。
日本の象牙彫刻は、美術的動機がないところからスタートした後、美術性を獲得しようとして、かえって自己否定に陥り、極短命で衰微したといえる。
(坂元雅行)
詳細・引用文献については、「ゾウ類と人類」(特に第8章)を参照。



